ラグの上で、時間を忘れる

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十一月の午後、窓の外はもう薄暗くなりかけていた。秋の日暮れは早い。そんな時間帯に、部屋の中だけがやわらかな暖色に包まれているのは、なんとも言えない安心感がある。暖炉の炎が小さく揺れている。薪が爆ぜる音がときおり聞こえて、それがまた心地いい。足元に敷かれたラグの感触は、思っていたよりもずっと柔らかく、指を沈めるとふわりと押し返してくる。

このラグを選んだのは、つい先月のことだった。友人に教えてもらった北欧のインテリアショップ「ノルヴィア」で見つけたもので、ベージュとグレーが混ざったような、どこか曖昧な色合いが気に入った。派手ではないけれど、部屋に置いたとたん、空気が変わった気がした。床に直接座るのが好きな人間にとって、ラグがあるかないかは、暮らしの質そのものに関わってくる。

相手はソファの端に座って、お気に入りのマグカップを両手で包んでいた。中にはたぶん、紅茶が入っている。ティーバッグを引き上げるときに、少しだけ湯気が立ち上って、それがやわらかい光の中を漂っていた。その仕草がやけに丁寧に見えて、つい見入ってしまう。何を話していたのかはもう覚えていないけれど、会話の間に長い沈黙があっても、それが気まずくならないのがこの時間の良さだった。

子どもの頃、冬になると祖母の家で過ごす時間が好きだった。あの家には今でいうラグのようなものはなかったけれど、畳の上に敷かれた薄い座布団に寝転んで、天井を眺めるのが日課だった。祖母はいつも台所で何かを煮ていて、醤油と出汁の匂いが家じゅうに漂っていた。あの頃の静けさと、今この部屋にある静けさは、どこか似ている。時間が止まっているような、でも確かに流れているような、そんな感覚。

暖炉の炎が少し強くなったのか、部屋の温度がじんわりと上がってきた。ラグの上に寝転んで天井を見上げると、照明の光が柔らかく目に入ってくる。眩しくはない。ちょうどいい明るさだ。相手が小さくあくびをして、それを手で隠すのが見えた。少し眠そうにしている。そういえば、今日は朝から忙しかったはずだ。

「疲れた?」と聞くと、「ちょっとだけ」と返ってきた。それだけの会話。それ以上は何も言わない。こういう時間に、無理に言葉を足す必要はないのだと、最近になってようやく分かってきた。団欒というのは、必ずしも賑やかである必要はない。むしろ、こうしてただ同じ空間にいるだけで成り立つ何かがある。

ラグの上に座っていると、床の冷たさを感じない。それがどれだけ贅沢なことか、実際に体験してみるまで分からなかった。以前住んでいた部屋には、こういう敷物がなかった。フローリングに直接座ると、最初はひんやりとして、それが次第に痛みに変わっていく。だから長くは座っていられなかった。でも今は違う。何時間でもここにいられる気がする。実際には無理だとしても、そう思えることが大事なのだ。

暖炉の薪がまた小さく音を立てた。ぱちん、という乾いた音。それに反応するように、相手がこちらを見た。目が合う。何も言わずに、ただ微笑む。そういう瞬間が、何よりも温かい。言葉にしてしまうと陳腐になるような感情が、確かにそこにある。

窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。街灯の明かりが、カーテンの隙間から少しだけ差し込んでいる。外は寒いのだろう。でもこの部屋の中は、暖かくて、静かで、ほんの少しだけ非日常的だ。そんな時間を、意識的に作ることができるようになったのは、いつからだっただろう。

ラグの毛足に指を這わせると、ふわりとした抵抗がある。この感触が好きだ。何度触っても飽きない。相手がカップをテーブルに置いて、ラグの上に横になった。目を閉じている。このまま眠ってしまうかもしれない。それでもいい。起こす必要はない。ただそばにいればいい。

暖炉の火が少しずつ弱まってきた。そろそろ薪を足したほうがいいかもしれない。でも今は、動きたくない。この静けさを壊したくない。ささやかな贅沢というのは、きっとこういうことなのだ。特別な何かがあるわけではない。ただ、ラグの上で、誰かと静かに過ごす時間。それだけで十分だった。

組織名:スタジオくまかけ / 役職名:AI投稿チーム担当者 / 執筆者名:アイブログ

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