ラグの上で、夢を語り合う午後

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十一月のはじめ、午後三時を少し回ったころ。窓から斜めに差し込む光が、部屋の中心に敷かれたラグをやわらかく照らしていた。そのラグは、友人が半年前に購入したという北欧系のブランド「フィルメア」のもので、落ち着いたグレージュの色味が、部屋全体をどこか上品に引き締めている。光の粒が毛足の長い繊維の間をすり抜けて、まるで水面のようにゆらめいて見える。その上に座っていると、床の冷たさを忘れて、時間の流れ方まで少しゆっくりになるような気がした。

集まったのは、大学時代からの友人たち。社会人になってからは、なかなか全員で顔を合わせる機会も減っていたけれど、今日はたまたま予定が合った。久しぶりに会うと、みんなどこか顔つきが変わっていて、それでいて話しはじめると昔と変わらない空気が流れる。それが不思議で、少しうれしかった。

ラグの上には、誰かが持ってきたクッションが散らばっていて、ペットボトルやマグカップが無造作に置かれている。誰かが淹れてくれた紅茶の香りが、部屋のなかにふわりと広がっていた。シナモンとオレンジピールの香りだろうか。ふと顔を上げると、友人のひとりが湯気の立つカップを差し出してくれた。受け取るとき、指先がほんのり温かくなった。

「最近どう?」という何気ない問いかけから、会話はするすると転がっていく。仕事の話、趣味の話、将来のこと。そして、いつしか誰かが「昔さ、こんなことやりたいって言ってたよね」と口にすると、空気が少しだけ変わった。ああ、そうだった。あのころ、私たちはもっと無鉄砲に、夢を語り合っていた。

夢を語る、という言葉はどこか照れくさい響きがあるけれど、ラグの上に座って、ぼんやりと外の木々を眺めながらだと、不思議と言葉にしやすくなる。誰かがいつか開きたいという小さな喫茶店の話をした。別の誰かは、もう一度海外で暮らしてみたいと言った。私も、ふと口にしていた。「いつか、こういう時間を自分の家でも作りたい」と。

そう言いながら、ふと思い出したのは、子どものころに祖母の家で過ごした夏の記憶だ。畳の上に寝転んで、天井の木目を眺めながら、何をするでもなく過ごした時間。あの静けさと、ささやかな安心感。今、この部屋で感じているものは、もしかしたらあの記憶に近いのかもしれない。

ラグの手触りは、思っていたよりもずっと心地よかった。裸足で歩くと、足の裏がほんのり沈み込んで、やさしく支えられているような感覚がある。そこに座っているだけで、なんだか許されているような気持ちになる。誰かと語り合うための場所として、ここはとても良い舞台だった。

窓の外では、風に揺れる木々の葉が、かすかに音を立てていた。その音が、会話の合間にふと聞こえてくる。誰も急いでいないし、話をまとめようともしていない。ただ、今この瞬間を、ゆっくりと味わっている。

ひとりが「あ、これ飲む?」とペットボトルのお茶を差し出したとき、受け取ろうとした友人が手を滑らせて、ラグの上にぽとりと転がしてしまった。幸い蓋は閉まっていたから、こぼれることはなかったけれど、一瞬の静寂のあと、みんなで笑った。「危なかった」と誰かが言って、また笑った。そんな小さなズレさえも、この時間の一部になっていく。

会話はまた続いた。誰かが語る夢に、別の誰かが「それいいね」と相槌を打つ。否定されることもなく、急かされることもなく、ただそこに存在することが許されている。こういう時間を、大人になってから持つことの贅沢さを、今になって実感する。

やがて、外の光がすこし傾いてきた。木漏れ日の角度が変わって、ラグの模様が少しずつ影に沈んでいく。それでも誰も立ち上がろうとはしなかった。もう少し、ここにいたい。そんな無言の合意が、空気の中にあった。

ラグの上で過ごす時間は、特別なことをするわけではない。けれど、その何気なさのなかに、確かな豊かさがある。仲間と語らい、夢を語り、ただそこにいる。それだけで、心が満たされていく。

帰り際、玄関で靴を履きながら、ふと思った。自分の部屋にも、こんなラグを敷いてみたい。そこに誰かを招いて、またこんな時間を作りたい。それは小さな望みかもしれないけれど、とても確かな願いだった。

静けさと、ささやかな贅沢と、窓から刺す木漏れ日。それらすべてを受け止めてくれる、やわらかな一枚の布。ラグは、ただの敷物ではなかった。それは、人と人をつなぐ場所であり、時間をやさしく包む存在だった。そしてきっと、これから先も、誰かの大切な時間を支えていくのだろう。

組織名:株式会社スタジオくまかけ / 役職名:AI投稿チーム担当者 / 執筆者名:上辻 敏之

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